真・闇の会夢幻格闘化計画{Dream Duel Project}
僞典・サムライスピリッツ
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序幕・作者謹言
「空想物語萬有眞理」
 
本作は、SNK(現在はSNKプレイモア)の劍劇挌鬪遊戲・
サムライスピリッツに、「もし中村主水がいたら?」
というふとした他愛も無い思い付きから生み出されたものである。
ならば其の中村主水が存在する『必殺』なる時代劇は壹體何か?

其は、昭和拾年放送の『必殺仕掛人』平成肆年放送の
必殺仕事人・激突』に至る參拾策の連續放送時代劇である。

舞臺となる時代は主に江戸時代後期、幕末の時代。
「晴らせぬ恨みを晴らし、許せぬ人でなしを消す。人呼んで仕掛人
 但しこの稼業、江戸職業盡くしには乘っていない。」
時代劇の異端兒である『必殺』は、この樣な口上で始まった。
この仕掛人逹そして、其の後繼者逹が
必殺』で活躍する殺し屋逹である。

彼等殺し屋は、他の時代劇の……
そう、暴れん坊將軍や參匹が斬る、遠山の金さんや水戸黄門の
主役逹の樣な、所謂「正義の味方」では無い。

時には自分の慾(錢慾しさ)の爲に殺しを引き受ける、
殺しの爲に人を陷れる、平氣で嘘を吐く。

ぶちまけて言うならば、小惡黨の集團と言えない事も無い。
其だけに、否、だからこそ壹癖も貳癖も有る、
「從來の正義の味方」には無い強烈な個性を
光り輝かせているのである。

そういった連中が殺し屋組織に集まって、
權力や財力を恣{ほしいまま}にしている連中に
壹泡吹かせるべく縱横無盡に活躍する。
必殺』とはこの樣な、ある意味黒々しくも痛快な
壹大惡役時代劇である。

この時代劇の異端兒と呼稱するに相應しい連續放送時代劇の世界と
サムライスピリッツの世界とを結び付けようかという私の考えは、
ある意味非常に無謀な試みであった。
必殺の膨大な世界觀や人物や物語の數々をサムライの世界で
如何やって馴染ませていくか……
そうやって試行錯誤の末に生まれたのが本作である。

最後に言わせて貰えば、
私は、『必殺』や『サムライスピリッツ』に限らず、
あらゆる空想創作物語の根本的原理は、
彼の中國で大衆に廣く讀まれた古典肆大奇書の壹つ
水滸傳』に見出している。

今後、サムライスピリッツに限らず、
色々なものを基盤にして
この樣な作品を送り出していくつもりである。
今後も、「
空想物語萬有眞理」、
つまり空想物語には特定の眞理は無い、
讀者壹人壹人に眞理が在る、
そういう物語を見て頂ければ幸いに思う。


組織に入る殺し屋逹
必殺』は映畫『必殺 陸・主水死す』が公闢された時點で、
參拾本の宅視放送、拾玖本の特別宅視放送、
玖本の劇場映畫が放映されている。

殺し屋逹の名稱も『仕掛人』『仕置人』『助け人
仕留人』『仕事屋』『仕置屋』『仕業人』『からくり人
商賣人』『仕事人』『仕舞人』『渡し人』『仕切人
橋掛人』『劍劇人』『始末人』といったものが存在する。

映畫は、『必殺始末人』が放映されたらしいが、
實は第肆彈『暗闇仕留人』は放送直前迄『暗闇始末人』なる
題名で番組宣傳用貼紙迄出來上がってたという逸話が存在する。

何故變更になったのかと言うと、
これは『始末人』なる小説が既に存在しており、
急遽變更になったからである。

さて、其の中でも半分以上を通じての主役が壹人いる。
必殺』の顏とも代名詞とも云うべき、
藤田まこと演ずる中村主水{もんど}である。

主水が裏稼業を始めたのは、宅視放送第貳彈『必殺仕置人
第壹話『命を賣って晒し首』に於いて山崎勉演ずる念佛の鐵
沖雅也演ずる棺桶の錠と組んだ時である。

ある日、處刑場で『闇の御前』長次郎の處刑が行なわれる。
其の晒された首を神隱しにななっていた父だと確信した娘が
ならず者逹に襲われ、が助ける。

長次郎の替え玉として父は殺された事を知った娘は、
逹に參拾兩で恨みを晴らしてくれと頼む。
主水は牢名主の天神の小六を牢座敷の處刑場に呼び出して
事件の眞相を確かめた後、
「ひょっとしてこの砂利に……何の關係も無ぇ男の血が
 吸い込まれているかも知れねぇ。
 俺は其を考えるとジッとしちゃいられねぇんだ。」
仕置人になる決意を固め、
事件の裏に上司の吟味與力的場(近藤宏)と
奉行牧野備中守(菅貫太郎)の存在を知る。

主水は仕置を遂行し、數日後、仕置料の分配をした際に、
「向かうが惡なら俺逹は其の上を行く惡になる。
 俺逹ゃ惡、惡で無頼だ。」
と自分が踏み込んだ『仕置人』の世界の定義づけをした。

この時點で、主水の仕置という行爲は、
奉行所という本來ならば正義の府たる処に絶望した男が
改めて自分の存在價値を見出したい、
という衝動に驅られての結果であり、
許せない惡い奴等を仕置するという怒りの表現である。
尤(もっと)も、裏稼業の正義性に關しては壹貫して否定しているが。

但し後半になって、この姿勢が非常に稀薄になっていったのは、
私自身としては非常に殘念である。
(例・只の用心棒の仕事をやっている
『仕事人VS仕事人』が 最も顯著である)


趣向を凝らす殺し屋逹
必殺』に見逃せないものとして、
殺しの趣向も又尋常では無い。
念佛の鐵の骨外しの透析圖から始まり、
石工の大吉(近藤洋介)の心臟掴みでは、
其に加えて何と心電圖迄登場した。

參味線屋の勇次の、絲で相手を宙吊りにする殺陣は、
たった數秒の描寫だが、
其の撮影には貳時間程かけたという噂さえ有る。

必殺』髓壹の藝術的殺しとして名高いのが、
竹細工の市松(沖雅也)の、鋭く研いだ竹串を、
相手の急所に指して絶命させる技と云われている。

其の中の壓卷{あっかん}は、紙で鶴を負つて竹櫛の端につけ、
竹櫛を相手の急所目掛けて投げ付けて刺すと、
竹櫛は開いて端に付いた折鶴が血をドンドン吸い上げて
純白の鶴が眞ッ紅な鶴になって落ちるというものが有る。

主水も只刀を振り囘すだけでなく、
芝居小屋に忍び込んで歌舞伎役者を仕留める際、
役者が自分の喉を插して絶命する演技をする瞬間、
黒子姿で裏に潛む主水が指して本當に絶命させた。

鑓の使用も有る。
大名行列の鑓を奪って家老を刺したり、
鑓使いの鑓を檢めに行った時、其の檢分の最中に刺したりもした。
刀の目拔きを拔き、柄を取って現れた刄で刺す技も登場する。

相手の刀で始末したり、其の儘切腹に見せ掛けた事も有る。
『必殺仕事人・伍 最終囘「主水、下町の玉三郎と會う」』
では、何と將軍家の刀で將軍世繼ぎを殺すという、
とんでもない眞似を仕出かしている。
刀の目利きの最中に不意打ちをかまして殺す事も有る。

尚、主水は殺す際に相手に言葉をかける癖が有る。
「地獄の鎌の蓋が締まる前に早く逝きな!」
「ついでに言っときますがね、アンタの命たったの參兩。
 安いもんですな。」
「××樣があの世でお待ちかね。お急ぎを。」
「仰る通り顔触れは揃ったが……あんたもう死んでるぜ。」
等、死者に追い討ちをかける樣なものばかりである。

又、相手に自分の正體を知らせ、
「中村、貴樣仕事人だったのか!!」
と驚かせてから始末する事も多々有る。
能有る鷹が爪を晒す瞬間の格好良さというべきか。

技の全てを擧げると…
・骨外し
・心臟潰し
・仕込煙管
・屋根突き落とし
・鍼灸の針
・髮の毛による絞殺
・花火
・足の指による骨碎き
・竹鐵砲
・木製野球用棒
・獨樂
・參味線の撥{バチ}
・催眠術
・火吹き
・櫛
・仕込み釣竿
・魚籠
・旗付き竿
・簪{かんざし}
・鋼仕込みの繩
・參味線の絲
・鐵製煙管
・花の枝
・組紐
・金絲
・吹き矢
・瓦
・ぽっぺん
・手製の手鑓
・神劍
・竹製火砲
・銀細工の鶴
・南京玉簾
・仕込み參味線
・仕込傘
・水引き
・への字型投具式櫛
・野球用棒状の鎌
・拍子木
・仕込鞭
・兩端に分銅の付いた紐
・小刀
・怪力
・刀

等等、多彩なものが有る。


殺し屋逹の理想と現實
必殺』に特有なものとして、他の時代劇と比べると
描寫がかなり現實的で、冷酷ささえ感じられる描寫さえ有る。

壹例を擧げると、他の時代劇、
例えば暴れん坊將軍とかいった時代劇では、
被害者が惡人に殺される寸前に助けが入り、
其の直後に立ち囘りが始まるのが主流であるのに對して、
必殺』となると、
被害者(頼み人)の殆どが惡人によって殺されている。

殺される寸前に助けが入るのは所謂理想的な状況であり、
實際には殆どの場合には殺されてしまうのが現實であると言える。
(他にも、「殺さないで」と哀願する馴染みの女の前の目の前で
 其の女の情夫を殺す、といった非情な壹面も存在する)

もう壹つは金を貰って恨みを晴らすという
必殺』獨自の姿勢である。

「彼等は何故金を貰って恨みを晴らすのか?」
實際、時代劇愛好家の中でこの點を嫌う人は少なくない。
必殺』以外の時代劇の主題は殆どが勸善懲惡であり、
『立ち囘り』が見せ場であると言うのは語る迄も無い。

正義の味方が惡をばったばったと斬るのが醍醐味と言えば醍醐味だ。
だが、其の中に何の罪も無い者逹がいるのは、
そして彼等が無視されているのは明らかである。
『正義による殺人』と『金を貰っての人殺し』の
どちらが深い業を背負うか……。

『人殺し』は所詮人殺し、如何に正義だの何だのと
立派な御題目を唱えようが『人殺し』という現實には
何ら變わりはしない。

「ならば敢えて深い業を背負う殺しを」
必殺』にはこういった意味合ひが込められているのであろう。
故に『人間の慾望を形にした』金を貰って殺しをするという、
他の時代劇では見出す事すら出來やしない
世界觀が存在するのである。

そして、この世界觀・構造は、恰も今までの
勸善懲惡型時代劇の常識を全て打破し、嘲笑うが如くである。

必殺 貳・ブラウン舘の怪物逹』では、京都で
死の商人ブラウン壹味との對決を控えた時、
組紐屋の竜(京本正樹)や花屋(後に鍛冶屋)の政(村上弘明)が
「お前が邪魔をして助けに行かせなかったから死人が出た。」
主水を責める描寫が有る。

これに對し、主水は「俺逹は仕事人だ」と、自分逹の無力さと、
人殺しの薄汚れた手で人助けをする事の滑稽さ、傲慢さを語る。
主水は惡を越えた極惡ではあっても、僞善者ではない、
という譯である。

暗闇仕留人 最終囘「別れにて候」』では、
裏稼業に懷疑的になった蘭學者・絲井貢(石坂浩二)が 主水
「俺逹が殺した奴等にも妻や子や好きな奴がいたかも知れない。」
と苦惱を打ち明ける場面がある。

其の殘された者逹にとっては、
今度は主水逹殺し屋が仇となり、恨みの對象となる。
彼等殺し屋は戻れないと知りつつも、
堅氣の安穩な生活を思わずにはいられないのであろう。

其の時の 主水の憂いに滿ちた顏が
其を物語っている樣に思えてならない。

實は、この場面設定は
新必殺仕事人 最終囘「主水仕事仕舞する」』
に於いても流用されている。

簪屋の秀(三田村邦彦)は、初めて殺した相手の娘に狙われ、
其の事で仕事人から足を洗う決意をする。

鍛冶屋の政は、自分が殺した者の娘がいる事を知り、
助けようとするが、其は娘の罠だった。
……だが政は娘を殺せなかつた。
何故ならば、娘を不幸にしたのは他ならぬ自分であるからだ。

仕置屋稼業』に於いて仲買人おこう(中村玉緒)は、
「壹度仕置した人間は壹生其の足枷から逃れる事は出來ない」
といって主水を仕置屋に戻そうとした。
其の足枷とは、恐らく殺した相手の恨みの事であろう。

然し、其でも主水は裏稼業を續けて行くしかないのである。
そして、其の我々には計り知れない『業苦』こそが
まさに『必殺』が世に問うた最大の主題だったと言えるだろう。


殺し屋逹の『其の後』
必殺 陸・主水死す』で主水が死んだ時點で
生き殘っている殺し屋逹は少ない。

暗闇仕留人』で絲井貢が幕閣殺しに失敗して死亡し、
必殺仕業人 最終囘「あんたこの結果を如何思う?」』で
赤井劍之助(中村敦夫)が女房と共に殺され、
新 必殺仕置人 最終囘「解散無用」』では
念佛の鐵が裏切り者との戰いで致命傷を負って、
吉原で女を抱きながら息絶えている。

必殺商賣人 最終囘「毒牙に噛まれた商賣人」』では
新次(梅宮辰夫)が同心の罠に遭って殺され、
『必殺仕事人 伍・旋風編 最終囘「
主水。大奧の鶴を食べて失脚する」』では、
舟で逃げる途中、夜鶴の銀平(門英)と
端整な顏立ちで女性支持者の多い
西順之助(ひかる一平)が爆發事故死してしまう。

映畫『必殺 參・表か裏か』では
(柴俊夫)、(笑福亭鶴瓶)、
女性に支持者が多い組紐屋の竜が死に、
必殺 伍・黄金の血』では鍛冶屋の政が死んでいる。

棺桶の錠の場合は、何と俳優の沖雅也が投身自殺という形で
他界するという結果になってしまう。

實は、當初は簪屋の秀
新必殺仕事人 最終囘「主水仕事仕舞する」』
で死ぬ豫定だったらしいが、
秀を殺さないで!!
という女性支持者からの助命歎願の聲が餘りにも多かったので
殺すに殺せず、生き延びたというのは
其の筋では有名過ぎる話である。

必殺』の後半、特に最終囘は前半部の充實さとは別の、
淡々とした莊重さが支配する。

最終囘に箇條書きされるのは、殺し屋組織の潰滅、殺し屋逹の最期、
或いはある者は郷里へ、ある者は役人等の表稼業へと戻っていく、
といった殺し屋逹の其の後の描寫が在るのみである。

だが、其こそが殺し屋になる前の元ある姿であり、彼等は
「壹つの大きな輪を描いていた」だけなのかも知れない。


必殺・遊戲的亢奮の原點
直感や印象といった、極曖昧な取り方が以外にも
正鵠を射る事はまま有るらしい。

例えに『NHK系時代劇』と『必殺』の場合を擧げてみよう。
『NHK系時代劇』を觀ると、何故か堪らない懷かしさを感じてしまう。

あの稀代の名作と言われた『風林火山』における
川中島の合戰で激突する兩雄が登場する場面では、
不覺 にも戰略の緊張感を忘れて何故か涙ぐんでしまう。

壹方『必殺』ならば、
我々は遊園地の高速豆列車に乘るが如く亢奮する。

何と言っても臨場感が違う。
自分の周りが個性的な殺し屋達に取り卷かれている樣な感じである。

前者が歴史宅視なら、後者は差し詰め青春宅視といった處か。

だが、何故そう言えるのか?
原因は貳つの歴史物語の本質に深く關っているからである。

問題の分析に入る前に、
必殺』『NHK系時代劇』の樣な時代劇が
何故我々の心を時めかすのか、其處を考えてみたい。

時代劇の最大の特徴は、
歴史を空想(場合によっては妄想とも言う)によって
大きく膨脹させる事に在る。

詰まり、物語が事實を壹層刺戟させる譯である。
そういう事が可能なのは、
元々物語と事實の兩者が同類だからに他ならない。

其どころか事實と物語はまるで奇妙に入り組んだ
メビウスの帯の如く、複雑に相互作用を齎(もたら)している。

例えば、太平天國の亂を起こした洪秀全は、
宋江梁山泊の豪傑逹に學んで中國解放の戰いを展開し、
又、文化大革命の時、
其迄體良く現役の指導體制から彈き出されていた毛澤東は、
梁山泊の百捌人から除外された
實力壹番の英雄・晁蓋に感情移入する事深く、
大英雄を主人公の列に加えなかった『水滸傳』を
「低次の創作」と徹底批判した。
所謂、物語の登場人物に自分を見立てているとも言える。

事實が物語を生ましめたのか、其とも、
物語が實在人物の生き樣を決したのかは鷄と卵の如く、
どちらがどちらとも言えない深い關係が其處には在る。
其も主題が時代劇となれば、時代や人種、事情を問わない。

そもそも、現代の時代劇には貳つの對照的な形態が存在した。
實は『必殺』と『NHK系時代劇』……もっと正確に言えば
『NHK大河時代劇』が其を代表している。
『NHK時代劇』と書けば正史だが、
ここに大河が付くと壹擧に物語色が濃くなる。

歴史求道家というよりも歴史の幻想性を採る我々としては、
こういった大河時代劇の方を好ましく思う。

これ等は主に戰國時代等を舞臺にした
戰亂時に起きる霸權爭いの時代であり、
例えて言うなれば英雄豪傑による、
勝ち拔き死合い物語とでも言うべきであろうか。

高校野球の盛り上がりにも似た
參國志の時代や信玄や信長の戰圀時代の迫力、
そういう類の時めきを與えてくれる。
其は勝ち負けを問わず感動が大きく、
又過去形だから懷かしい。

壹方、『必殺』は方向が壹寸違い、
抵抗と叛逆の物語になる。

革命の遊戲は、太平天國の亂や佛蘭西革命、
日本の明治維新を思い起こせば良い。
然も其は現在進行形である。

必殺』は現代政府、特に爲政者に不滿を抱く人々の、
文字通りの『今』を表す時代劇に他ならないからである。

必殺』の今も何時も孕んでいる叛逆と革命。
故に『必殺』には現體制を批判する見立てが可能となり、
樣々な諷刺が生み出されるに至る。

必殺』が時代劇の形をとった現代劇と稱される所以は
正しく此處に在ると言ってもいい。

諷刺が成立するのは、
取りも直さず其の時代劇が現在形だからである。
いい例が曲亭馬琴の『傾城水滸傳』である。

これは日本の賢妻烈女・遊女・美女百捌人による
水滸傳遊びになっている。

馬琴はこの本の冒頭で、水滸傳が何故に『剽竊』に
多用されるのかという疑問に對し、
解釋多きによって也」と應えている。

詰まり、物語が複雜で、オマケに長すぎるので
解釋が如何しても多樣になってしまうからであると云う。
物語がはっきりしないから幾らでも變えられるという譯だ。

私が『必殺』に『水滸傳』を見た樣な氣がするのもこの爲であろう。
これはサムライスピリッツにも云える事であり、
サムライスピリッツもこの手の面白さを祕めた物語性を持っている。
現代の人々にとっても、『必殺』は樣々などんでん返しを祕めた
『冒險活劇』では無かったろうか?


本陣へ撤退
本陣へ撤退
撤退
撤退